「行ってきます。」
いつもの出勤時間。
通勤に使っている鞄の中には
印鑑やマイナンバーカード、通帳などの貴重品が詰まっていた。
なんの変哲もない平日の朝を過ごして旦那を見送り
うとうとしている義父にお礼とお別れを告げて
リビングでワイドショーを見ている姑に
最後になにか伝えることはあるか
お礼くらいは言っておくべきか迷ったけれど
これから自分がする不義理を考えると
とても上っ面な偽善に思えてやめた。
『もう二度と帰らない。』
今一度固く決意をして
私は十数年過ごした義実家の玄関を後にした。
普段通りの電車にのって会社に行き
いつもと変わりない9時間弱の勤務を終える。
夕方になって仕事が終わると
私はいつもとは違うホームで電車を待った。
旦那や姑からの連絡が怖くて
スマートフォンはポケットに入れたまま見ていない。
ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られていると
数日ぶりに訪れる駅名のアナウンスが聞こえて
一斉に動き出した人の流れに身を任せてホームへ降りた。
20分ほど歩き
見慣れないドアの前で真新しい鍵を鍵穴に差し込むと
真っ暗な冷えた小さな部屋がドアの向こうに現れた。
『照明を買ってなかった。』
今になって気づいたけれど
事前にネットで購入しておいた布団や
義実家から発送した衣類が19時以降に届くから
その後にでも24時間のスーパーにでも買いに行けば良い。
ガスはまだ通っていないからついでに銭湯にも行こう。
こんなに自分ひとりで考えて行動するのは何年振りかわからなかった。
とぼとぼと暗い部屋の真ん中に歩いていき、座り込んだ。
ポケットの中のスマートフォンが
すこし前から震えていることには気づいたけれど
頭の中でいろいろな感情が混ざりあって
自分でも理由がよくわからないまま
私は静かに泣いていた。

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